ムカサリ絵馬3/山形県



死者の結婚式、ムカサリ絵馬を巡る旅。



(詳しくは ムカサリ絵馬 ムカサリ絵馬2 を参照ください)





山形県内で今でも行われているムカサリ絵馬の奉納習俗は最上三十三観音霊場を中心に展開されていると述べた。

前回、前々回は村山地方の中央部である山形市、天童市、東根市、村上市辺りを巡ったレポートをお届けした。

今回はその南側の上山市を訪ねてみることにした。




実は前から気になっていたのだが、このムカサリ絵馬が奉納されているエリアはどの辺りまでなのだろうか?


最上三十三観音がその範囲なのだとすれば南端の札所である高松観音がその最南となろう。

その高松観音周辺には別に最上三十三観音上山七福神や上山三十三観音といった比較的規模の小さい霊場が構成されている。

これらの寺院にもムカサリ絵馬が奉納されているのではなかろうか、という直感が働き、訪ねてみることにしたのだ。


で、上山市南部を中心にあちこち訪ねてみたのだが…

結論から言うと高松観音がムカサリ絵馬の最果てでした。




で、その高松観音

最上三十三観音の11番札所である。



緩やかな石段を上った先に観音堂が見えてくる。




堂外から本尊の聖観音(行基作と伝わる)に五色の帯が伸びている。

外からでも観音様と結縁出来るシステムである。



観音堂の扉の前には大量の紙が貼り付けられている。

これは最上三十三観音の札所によく見られる光景で、巡礼者が貼っていく納札だ。

一度目の巡礼者は白い納札を貼り、2度目、3度目と回を重ねていくと色付きの納札になるのだという。

ちなみに10回以上巡礼した猛者は金色の納札を貼るのだとか。

後から来た巡礼者はその金の納札を見つけたら縁起物として持って帰っていい、というローカルルールがあるのだそうな。

さらに100回以上のレジェンド級の巡礼者は錦で出来たスペシャルな札を貼るというのだが残念ながら見たことないです…




他にも般若心経や祈願文など様々な紙がベタベタと貼られていた。

今やコレを見ると「ああ、山形に来たなー」と思えるようになってしまった。





堂内にもおびただしい数の紙札が貼られている。

他の地域のお寺でこんなに札を貼られたら「貼り紙禁止!」となりそうなものだが、東北地方のお寺はえてして寛容だ。

ごくたまに本堂や観音堂を新築したお寺などは納紙を禁止しているが、そういうところでも外に納札専用のボードが設置してあったりする。

つまり、参詣者の「貼りたい!」という気持ちを最大限に尊重してくれるのだ。優しい。





欄間には二十四孝の彫刻が施されてあった。

こちらは私の好きな唐婦人

歯が抜けて物が食べられなくなった姑に自分の乳を飲ませるという場面。

姑孝行ここに極まれり!という感動の場面なのだが、どこか変態チックでおかしいので私は大好きなんですつまり変態なんですよはい。




堂内の壁という壁には隙間なく大量の絵額が奉納されている。

こちらは参詣図。明治40年というかなりレアものの絵額だ。




親子が参拝しているのだろうか。



坂道の先、左上には小さなお堂が見える。ここの観音堂なのだろう。





ほとんどの最上三十三観音の札所には沢山の絵馬が架かっている、特に目立つのが女性が集団で裁縫をしている大絵馬。

裁縫の技術向上祈願の絵馬だという。




そしてもちろんムカサリ絵馬も沢山奉納されている。



ムカサリ絵馬南限の地だけに奉納点数は少な目かと思ったら全然そんなことはなく、かなり多くのムカサリ絵馬を見ることが出来た。


基本的なムカサリ絵馬の見かたをおさらいしておく。

これは未婚で亡くなった者があの世で寂しかろう、ということであの世で結婚しいるであろう様子を想像した絵なのだ。

つまり画中に登場する結婚相手は想像上の人物なのだ。




図中には新郎新婦と仲人、そして酌をするオナジョウブという子供が描かれている場合が多い。

そして床の間の掛軸や人物の近くに故人の戒名や俗名が記されている場合が多い。





明治36年の絵馬。かなり古い絵馬だ。



このことから、高松観音はムカサリ絵馬奉納習俗の最南端にありながらかなり古くからその習俗があったと考えられる。






比較的近年のムカサリ絵馬。



仲人やオナジョウブの姿は省略され、新郎新婦だけが描かれている。

さらに新郎新婦は正面を向き、それまでの情景描写的な画角から強い正面性を持った象徴的な絵へと変化を遂げている。




これも同じ作者によるものだろう。





さらに時代が下ると婚礼写真風の絵馬へと変化していく。



ここには最早床の間や襖と言った屋内空間を表現するアイテムは消滅している。





こちらも婚礼写真風。



モノクロの描写がある種の凄味を引き立たせている。





堂内の一画には沢山の写真が貼られていた。

恐らく亡くなった人の写真だろう。

皆、遺族が成仏を願って貼っていったものなのだろう。




その願いの重さを感じざるを得なかった。



しばらく眺めていると外から声が聞こえてきた。

団体で巡礼している人達のようだ。



堂内に上がっると皆、慣れた様子で念仏を唱え始めた。

そのうちの一人が「おお!」と言って金色の納札を電光石火の速さでゲットしていた。


おわー。金札あったのかー!気付かなかったぜ!




堂内に貼ってあった十善界の絵解き。

このポスター、超カッコイかった。欲しい!





さて。

その後、周辺のお寺をリサーチしてみた。

最初に訪れたのは久昌寺



上山七福神の布袋尊を祀る寺だ。

比較的最近整備されたお寺で、背後の蔵王連峰を借景にした庭園が印象的な寺院だった。




曹洞宗のお寺であり、座禅ルームも充実していた。




本土の片隅には大きな地蔵菩薩像が。

運慶作と伝わっているそうです。




ここにも女性の裁縫の大絵馬が。

ひとりひとりが実在の人物なのだろうか。





そしてムカサリ絵馬。




ここもまた比較的古い時代のムカサリ絵馬が多かった。




陽に焼けてしまったのか、元々そういう色なのか判らないが妙に茶色いベースの絵が多かった。



これは昭和14年に奉納されたムカサリ絵馬。



画面左上に男性の戒名が記されている。

つまり左端の男性が故人で、それ以外は新婦を含め全部架空の人物という事になる。






これも男性の戒名が記されている。



つまり右の裃を着た男性が故人であることが判る。







こちらは昭和26年に奉納された絵馬。



戒名に「忠」や「義」の字が入っているので恐らく戦死した人物なのだろう。

特筆すべきは奉納者が東京都の人であること。

この地域の出身者なのか噂を聞きつけて東京から来た人なのか判らないが、戦後間もない時代にも東京にまで信仰圏が広がっている様子が見て取れる貴重な資料だ。





明治43年の絵馬。



このように百年近く昔の絵馬が現代でも掲げられているところにこの習俗の力強さが感じられる。






大正時代の絵馬。



所々絵具が剥離してはいるが、新婦の着物の柄や襖絵に作者の絵心を感じられる。








明治35年の絵馬。

おそらくこの地域で最古に近いムカサリ絵馬だ。



こう言っては失礼だが、何の変哲もない寺院の片隅に100年以上前の死者を悼む心がダイレクトに伝わる絵が掲げられていることに改めて驚愕する。







大正時代に奉納された絵馬。



大正時代とはいえ個人情報ゆえボカしてしまったが奉納者が複数だったのが珍しい。

しかも住所も別々。

親戚同士なのか、友人同士なのか。






昭和24年奉納の絵馬。



これもまた戦死した男性のムカサリ絵馬と思われる。

ムカサリ絵馬の奉納時期は戦後が圧倒的に多い。

独身で出征し、そのまま帰らぬ身となったケースが多かったからだろう。


事故や病気や自死で亡くなってもいたたまれないだろうに、戦争で息子を失った親の苦しみ、無念はいかほどのものだろう。

しかも戦時中はその知らせを聞いても軍神になったのだから、と泣くことも許されなかったと聞く。

平和な時代に生まれ育った私には想像もできない苦しみだったに違いない。






大正7年の絵馬。



絵師の力量もあるのだが、目出度いはずの宴席なのにどこか目線が虚ろで華やかな婚礼の飾りも虚しい感じがする。







昭和22年の絵馬。



これもまた男性の供養のための絵馬だ。

ムカサリ絵馬は圧倒的に男性の供養のものが多い。

これには訳があって、実は未婚で亡くなった人、特に男性はそのままでは先祖として祭祀する資格を得られないのだ。

そこで建前上、あの世で結婚して子供を設けた事にしてそこで初めて先祖として祀ることが可能になる、というシステムになっているのだ。

つまりこのムカサリ絵馬の習俗自体が若き子を失った親の想い、という側面とは別に未婚の者を先祖として迎え入れるための社会的なプロセスでもあったのだ。


感情的な部分と社会システム的な部分、どちらが優先されているのかは部外者の私には判らない。

しかしこうしてわざわざ寺院に絵馬を掲げているのを見る限り、案外後者の意味合いの方が大きいのかな、と思えなくもない。





こちらは昭和33年。



この頃から、新郎新婦と仲人が正面を向いて横並びに描写され始める。






婚礼写真風の絵馬。



それぞれに名前が記されているが、どちらかは架空の名前に違いない。






フォトモンタージュによるムカサリ絵馬。



このような合成写真の絵馬は高度経済成長期あたりから見られるようになった。

この絵馬も昭和46年に奉納されている。

戦後四半世紀経ってからこの絵馬が奉納された経緯は何だったのだろう。




こちらは海軍の男性。

大事に取っておいた出征時の写真を使ったのだろう。

新婦の現代的な顔立ちに時代のギャップを感じざるを得ない。




昭和16年の絵馬。

今まで見てきた線の太い武骨な画風とは一線を画する繊細な絵柄と色遣いの絵だ。

右下に作者のサインと落款が見える。

多分、生華と書かれているのだと思うが、違ってたらスンマセン。





同じ作者のものと思われる絵をモノクロコピーしたものをムカサリ絵馬として奉納している。

ある意味量産型のムカサリ絵馬と言えよう。





ムカサリ絵馬ではないが、家族で参拝する絵額も多かった。

とはいえ単なる参詣図ではなく、戒名が書かれていることから死者の供養であることが判る。




軍服の男性は老夫婦の息子なのだろう。

戦死した息子の供養かと思ったら女性の名前が記されていた。

という事は…




明治44年の絵額。

これは普通の参詣図なのだろう。

祭壇の奥からスピリチュアルなオーラが照射されている。こういうの好きだなあ。





ナマズの上に乗った不動明王。これ何なんだ?




銭で三重の塔を象った絵馬も多くあった。




本堂奥は位牌堂のような場所があったが、位牌がみな異様に立派で驚いた。







次に訪れたのは大慈院というお寺。



上山七福神の弁財天を祀るお寺だ。




数は多くなかったが個性的なムカサリ絵馬が多かった。





昭和15年の絵額。



家族で参詣する図。

先程見た生華の絵である。

色遣いが特徴的だ。




こちらも生華の作。



子供のファッションが堪らない。




これも生華のムカサリ絵馬。



やはり色遣いが独特だ。




婚礼写真風のムカサリ絵馬



これも生華の作だ。




静かなトーンのムカサリ絵馬。



消えてしまいそうな花嫁の姿が印象的だ。





比較的最近のムカサリ絵馬。



2組の新郎新婦とその外側に仲人か、もしかしたら両親なのかも知れない。

中央の2人にそれぞれ戒名が記されている。

これはつまり男女のきょうだいがそれぞれあの世で結婚した、というダブルムカサリ絵馬なのだろう。




フォトモンタージュのムカサリ絵馬。



これを絵馬と呼んでしまっていいのかどうか、若干の疑問は残る。

しかし本質的に従来のムカサリ絵馬と何も変わらないので、やはりムカサリ絵馬としか言いようがないのだ。




他にも合成写真のムカサリ絵馬が奉納されていた。










最後に訪れたのが長竜寺



ここも上山七福神のひとつ。福禄寿担当。





本堂にはまたしても女性の集団裁縫の絵馬が。






そして欄間にはムカサリ絵馬がズラリと並んでいた。





比較的古い時代のものが多かったようだ。





この世では行われることはなかった幻の結婚式。





華やかなれど、どこか寂しさが漂う。





こうした無言の饗宴が今日も明日も繰り広げられているのだ。






ほとんどが男性の供養だが、勿論女性の供養のためのムカサリ絵馬もある。

こちらは女性ためのムカサリ絵馬。



色褪せてしまったのだろうか、妙に白っぽい絵だ。

そのため、あの世での結婚式という不思議な雰囲気をより強調させる絵になっている。





こちらも女性のムカサリ絵馬。






ここにも生華の手によるムカサリ絵馬があった。



この地域限定で活躍した絵師なのだろうか。

ある意味上山のムカサリ絵馬シーンの一画を担っていると言っても過言ではない活躍っぷりだ。





量産型のモノクロムカサリ絵馬もあった。




…あれ?コレがオリジナルかな?



…と思ってよーく見たら畳の目や棚のしつらえ、襖の模様などが違ってました。


似たような絵だが、微妙にディテールを変えていてなるべく被らないように努力している様が伺える。







家族での参詣図。

ムカサリ絵馬ではなく、何がどうという訳ではないのだが、今回一番心に滲みた絵である。




以上で上山のムカサリ絵馬巡りは終了。

思いの外、ムカサリ絵馬の習俗が色濃く残っていて驚いた。



それにしても不思議な習俗である。

これは明らかに故人の亡くなった姿を留めておく為の遺影とは一線を画する存在だ。

故人があの世で生きながらえて、更に適齢期になれば結婚をし、さらに言えば子供までもうける。

仏教の輪廻転生などどこ吹く風、あの世で永遠に生き続ける我が子の姿を夢想する、仏教とは別の死生観がそこには厳然と存在しているのだ。

それをあえて仏教寺院に奉納するというのも何とも不思議なハナシではある。


やはり東北地方の民間信仰パワーの凄みとそれを許容するお寺のおおらかさが生み出した光景なのだと思う。






2008.05.
珍寺大道場 HOME